創造性とは、質だ
インドの神秘家OSHOは、人間のあらゆるテーマについて深い洞察を与え、智慧を与えてくれています。創造性に関する彼の言葉に耳を傾けてみましょうか・・・◇   ◇   ◇ 質問:「Osho、私は自分は創造的ではないと信じていました。ダンスをしたり絵を描いたりする以外にどんな創造性があるのでしょうか?そして、自分の創造性をどうやって見つけたらいいでしょう?」 OSHO : 創造性は絵画、詩歌、ダンス、歌といった特定の活動とはかかわりがない。それは特定のものとはいっさいかかわりがない。  どんなものでも創造的になる――活動にその質をもたらしうる。活動そのものは創造的でも非創造的でもない。創造的でない絵を描くこともできる。創造的でない歌をうたうこともできる。創造的に床を掃除することもできる。創造的に料理することもできる。  創造性とは、自分がしている活動に、あなたがもちこむ質だ。それはひとつの態度、内面的なアプローチだ。あなたのものの見方だ。  だから、最初に理解しておくこと――創造性を特定のものに限定してはいけない。創造的なのは人間であって、ある人が創造的なら、彼がなにをしようと、ただ歩いているだけでも、彼の歩みのなかに創造性を見ることができる。彼が静かに坐って、なにもしていなくても、そのなにもしないことが創造的な行為になる。菩提樹の下でなにもせずに坐っている仏陀は、世界がかつて知ったもっとも偉大な創造者だった。 それさえ理解すれば、創造的だったり非創造的だったりするのはあなた、人間だということを理解すれば、この問題は解決する。  だれでも画家になれるわけではないし、その必要はない。だれもが画家になったら、世界はとても醜いものになる。生きていくのが難しくなる。そしてだれでもダンサーになれるわけではないし、その必要はない。しかし、だれでも創造的になることができる。  なにをするにしても、それを歓びに満ちてするなら、それを愛情深くするなら、その行為が純然たる経済活動でないなら、それは創造的だ。自分のなかにそれから成長したものをもっているなら、それが自分に成長をもたらしたなら、それはスピリチュアルなもの、創造的なもの、神聖なものだ。  あなたは創造的になればなるほど神のようなる。世界中のすべての宗教が、神は創造主だと言っている。私は神が創造主なのかどうか知らないが、ひとつだけ知っているのは、創造的になればなるほど、あなたは神々しくなるということだ。あなたの創造性がクライマックスに達すると、あなたの全生命が創造的になると、あなたは神々しさのなかに生きている。だから神は創造主にちがいない。というのも、創造的に生きてきた人たちは神にきわめて近くなるからだ。  自分のすることを愛しなさい。それをしているときは瞑想的になりなさい――それがなんであろうと、それがなにかという事実とは関係なく。  パラスがこの荘子オーディトリアムの床を掃除しているのを見たことがあるかね? 見たことがあればわかるだろう。掃除も創造的なものになりうる。なんという愛を注いでいることか! 内側ではほとんど歌っているようだ、踊っているようだ。あれほどの愛とともに床を掃除したら、目に見えない絵を描いたのと同じだ。その瞬間をそれほどの歓びとともに過ごしたので、それはあなたにいくらかの内なる成長をもたらした。あなたは創造的行為のあとでは同じではありえない。  創造性とは、なんであれ自分のすることを愛するということだ。それを実在の贈り物として楽しみ、歓び祝いなさい! たぶんだれもそのことを知ることはないかもしれない。だれがこの床を掃除しているパラスを褒め称えるかね? 歴史はそれを書きしるさないだろう。新聞は彼女の名前と写真を掲載しないだろう。だが、そんなことはどうでもいい。彼女はそれを楽しんだ。その価値は内側にある。  だから、あなたが名声を求めてから、自分は創造的だと考えるなら、ピカソのように有名になったら自分は創造的だと考えるなら、あなたはとり逃がすだろう。それならあなたは、じつのところ、まったく創造的ではない。あなたは政治家で、野心的だ。名声が得られれば、それもいい。得られなくても、それでもいい。それが考慮の対象になるべきではない。考慮されるべきは、自分のしていることを楽しんでいるかどうかだ。それはあなたにとって恋愛のようなものだ。  あなたの行為が恋愛のようなものなら、それは創造的になる。愛と歓びのタッチによって、小さなことも偉大なものになる。  質問者は尋ねている、「私は自分が非創造的だと信じていました」そんなふうに信じていたら、あなたは非創造的になる。というのも、信じることはたんに信じるだけでは終わらないからだ。それは扉を開けたり、扉を閉めたりする。間違ったことを信じていたら、それがあなたの周辺に閉じた扉のようにまとわりつく。自分は創造的でないと信じていたら、あなたは非創造的になる。なぜなら、その信念が邪魔をし、絶えず否定するからだ――すべての流れる可能性を。それはあなたのエネルギーが流れることを許さない。というのも、あなたはひっきりなしに「私は創造的ではない」と言っているからだ。  これがあらゆる人に教えられてきた。創造的とみなされる人はほんのわずかしかいない。何人かの画家、何人かの詩人――100万人に一人だ。これはばかげている。人間はみんな生まれながらの創造者だ。子どもたちを見たらそれがわかる。子どもはみんな創造的だ。だんだんと、私たちは彼らの創造性を殺していく。だんだんと、彼らに間違った信念を押しつけていく。だんだんと、彼らの注意をそらしていく。だんだんと、彼らをもっともっと経済的で政治的で野心的にしていく。  野心が入り込むと、創造性は消え失せる。というのも、野心的な人間は創造的でいられないからだ。というのも、野心的な人間はどんな活動もただそれだけを愛することができないからだ。絵を描いているときも、彼は先を見ている。ノーベル賞を受賞するときのことを考えている。小説を書いているとき、彼は先を見ている。彼はいつも未来にいる。そして創造的な人はいつも現在にいる。  私たちは創造性を破壊してしまう。創造性をもたずに生まれてくる人はいないが、私たちは99パーセントの人を非創造的にしてしまう。  だが、責任を社会に押しつけるだけではどうにもならない。あなたは自分の人生を自分の手でつかまなければいけない。間違った条件付けを落とさなければならない。子どものころに与えられた間違った催眠術的な自己暗示を落とさなければならない。それらを捨てなさい。自分の条件付けをすべて浄化したら、突然、自分は創造的であることに気がつく。  生きることと創造的であることは同義語だ。生きていながら創造的でないことはできない。だが、その不可能なことが起こり、その醜い現象が起こった。というのも、すべての創造的な源泉が蓋をされ、せき止められ、破壊されて、あなたの全エネルギーが、社会が利益になると考えるなんらかの活動へと差し向けられてしまったからだ。  私たちの人生への態度はすべて金目当てだ。そして金銭は人が興味をもちうるもののなかでもっとも非創造的なもののひとつだ。私たちのアプローチはすべて権力志向だが、権力は破壊的で、創造的ではない。金銭を追及する人は破壊的になる。というのも、金は奪われ、搾取されるしかないからだ。それは多くの人から奪われなければならない。そうしないともつことができない。権力とは、多くの人を無力にし、彼らを殺さねばならないことを意味するにすぎない。そうして初めて権力をもち、権力を手に入れることができる。それは破壊的な行為だということを忘れてはいけない。  創造的な行為はこの世界の美しさを高める。それは世界になにかをもたらすが、けっしてなにかを奪ったりしない。創造的な人はこの世界に生まれて、この世界の美しさを高める。あちらこちらに歌をもたらす。彼は世界をもっとダンスができる、もっと楽しむことができる、もっと愛することができる、もっと瞑想することができる場所にする。この世界を去るとき、彼は背後によりよい世界を残していく。だれも彼を知らないかもしれないし、だれかが彼のことを知っているかもしれないが、そこが大事なのではない。しかし、彼はよりよい世界を後に残していく、とてつもなく満ち足りて。というのも、彼の人生にはなんらかの価値が内在していたからだ。 金銭、権力、名声は非創造的だ。非創造的なだけでなく、破壊的な活動だ。それらに気をつけなさい。そしてそれらに気をつけることができれば、あなたはとても簡単に創造的になることができる。私はあなたの創造性が権力、名声、金銭をもたらすと言っているのではない。いいや、私はあなたにバラ色の生活を約束することはできない。それはあなたに厄介なことをもたらすだろう。それはあなたに貧しい人の人生を強いるかもしれない。私があなたに約束できるのは、あなたは内側の奥深くではもっとも豊かな人であるだろうということだけだ。内側の奥深くで、あなたは満ち足りている。内側の奥深くで、あなたは歓びと祝祭にあふれている。いつもいつも実在からもっともっと多くの祝福を受け取りつづけている。あなたの人生は祝福の人生になる。  だが、外面的には、あなたが有名ではなく、あなたにはお金がなく、あなたがいわゆる世間的な成功を収めていないことはありうる。だが、このいわゆる世間で成功することは大きな失敗をすること、内なる世界で失敗することだ。そしてみずからの自己を失ってしまったら、その足元に踏みしめている世間に対して、あなたはなにができるのかね? 全世界をわがものにしても、自分自身をもっていなかったら、あなたになにができるのか? 創造的な人には自分の存在がある。彼はマスターだ。  東洋で、私たちがサニヤシン(出家者)をスワミと呼ぶのはそのためだ。スワミとは主人のことだ。乞食のような人がスワミ、主人と呼ばれる。多くの皇帝たちが知られているが、彼らはその最後の総決算で、人生の最終的な結論で、乞食にすぎないことが明らかになった。金や権力や名声を追い求める人は乞食だ。なぜなら、彼は四六時中、乞い求めているからだ。彼には世界に与えるべきものがなにもない。  与える人になりなさい。なんでももっているものを分かち合いなさい。そして覚えておくこと、私は小さなことと大きなことをいっさい区別していない。あなたがこころから笑うことができれば、だれかの手をとって微笑むことができれば、それは創造的な行為、偉大な創造的行為だ。だれかをハートのなかに受け容れるだけでも、あなたは創造的だ。愛情深いまなざしでだれかを見るだけでいい。愛情深く見るだけで、その人の全世界が変わってしまう。  創造的になりなさい。自分がなにをしているかは心配しなくていい。人はいろいろなことをしなければならないが、あらゆることを創造的に、献身的にやりなさい。そうすればあなたの仕事は礼拝になる。そうすればなんであれ、あなたのすることは祈りに満ちたものになる。そしてなんであれあなたのすることは祭壇への捧げものになる。  自分は創造的でないという、その信念を落としなさい。私はこの信念がどのようにつくられたのか知っている。あなたは大学では優良な成績を収めなかったかもしれない。自分のクラスでトップではなかったかもしれない。あなたの絵は評価を得られなかったかもしれない。フルートを演奏したら、隣人が警察に通報したかもしれない。そうかもしれない――しかし、そういったことがあったからといって、自分は創造的ではないという間違った信念をもってはいけない。それはあなたが他人の真似をしていたからなのかもしれない。  人びとはなにが創造的なのか、きわめて限定的な考えしかもっていない――ギターやフルートを演奏したり、詩をつくったりすることに関して。だから彼らは詩の名のもとにごみのようなものを書きつづける。あなたは自分にはなにができるのか、なにができないのかを見つけなければならない。だれもがなにもかもできるわけではない。あなたは自分の天命を探し、見つけなければならない。あなたが暗闇を手探りしなければならないことは、私もわかっている。あなたの天命がなんなのか、すっきり割り切れないかもしれないが、人生とはそうしたものだ。そして人がそれを探し求めねばならないのはいいことだ。そのまさに探求のなかで、なにかが成長していく。(OSHO  「A Suden Clash of Thunder」, #4, Question 1 より抜粋)
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